メニュー

代々続く家業を継いだ私が、なぜ手放してFIREを目指すのか

読了 約9分
この記事の目次

代々続く家業を継ぎました。一生続けるものだと思っていました。

家業だから、跡取りだから。その責任感だけで毎日を回している後継経営者は、たぶん少なくありません。辞めたいとも言えず、続ける理由を自分でもうまく説明できないまま、日々をなんとか回している。私もそうでした。

その私が、いま事業を手放す準備をしています。逃げではありません。続けるうちに見えてきた「仕組みの限界」と、人生を一度ふりかえった結果、自分なりに筋を通して決めたことです。

「続けることだけが、本当に責任なのか」。同じ立場で立ち止まっている方の、別の選択肢を考える材料になればと思います。

決断に至った経緯と、それを支えた理屈の両方を、できるだけ正直に書きます。

「跡取り」が当然だった頃

まず、出発点の話です。私は「自分で選んだ」という実感が薄いまま大人になりました。

物心ついた頃から、私は周りに「跡取り」と呼ばれて育ちました。それが嫌だったわけではありません。嫌だと思う前に、それが当たり前のものとして体にしみ込んでいた。そういう感覚です。

進学先も、その先の道も、気づけば家業につながる選択をしていました。自分で選んだのか。選ばされたのか。あの頃の私には、その区別すらつきませんでした。

自分で選んだ唯一のもの=大企業就職

そんな私にも、数少ない「自分で選び取った」と言える選択がありました。最初の就職です。家業とは関係のない大企業を、自分で選んで入りました。

大事なのは会社の名前ではありません。誰かに敷かれた線路ではなく、自分の意思で乗った道だった。その実感のほうです。

期間は短いものでした。それでも、その実感は今でもはっきり覚えています。だからこそ、後になって、ある問いが効いてきました。

それを辞めて、小さな家業へ

その後、私は大企業を辞めました。そして小さな家業に入りました。これも、ある意味では自分の決断です。

ただ、正直に言います。それは「跡取り」という前提に、最後は従った決断でもありました。自分で選んだ唯一のものを手放した。そして、選ばされていたほうの道に戻った。今ふりかえると、そういう構図だったのだと思います。

そこから十数年。最初は家業の仕事を覚えるところから始め、代表を引き継いだのは5年前のことです。引き継いでからは、経営者として走り続けました。

ふく郎

「選ばされた」のか「自分で選んだ」のか——あの頃の私には、その区別もついていませんでした。

続けるほど見えた構造的な限界

ここからは弱音の話ではありません。続けるうちに見えてきた、経営の「仕組み」の話です。私という人間の問題ではなく、事業の作りそのものの問題でした。

家業は、先代が長い時間をかけて作ったものです。仕入れも、取引先との関係も、現場の段取りも、すべて先代の頭の中で一度組み上がっていました。その全体像の上に、事業全部が乗っていたのです。

私はそれを引き継ぎました。引き継いだのですが、その全体像を一人で抱えきるのは、思っていたよりずっと難しいことでした。

先代が形づくった全体像を一人で抱える

先代がつくった事業は、よくできていました。よくできている。だからこそ、回すには「全部わかっている人」が一人必要でした。そういう作りだったのです。

私はその一人になろうとしました。足りない部分は、気合と時間で埋めました。休みは少なく、その負担は家族にも及びました。

でも、気合で埋めている。それはもう仕組みではありません。一人の人に頼りきった状態です。これを「属人化」と言います。

経営の作りとして見ると、ここが弱点でした。

人が育たず属人化=先代が消えれば事業も消える

もう一つの限界が、人でした。人の入れ替わりが激しかったのです。長く働き、深く育っていく人が、なかなか残りませんでした。

任せていた人が抜ける。すると事業はたちまち回らなくなります。育ちかけた人が離れる。すると、また振り出しに戻ります。これを何度か経験しました。そして、一つの冷たい事実に行き着きました。

この事業は、先代と私という二人の個人に強く頼っている。つまり、私たちがいなくなれば、事業そのものも消えるかもしれない。感情ではなく、仕組みから出てきた結論でした。

ふく郎

これは私個人の弱さの話ではありません。一人に頼りきった仕組みは、誰が立っても同じ壁に当たるはずです。

人生を棚卸しした2〜3年前

仕組みの限界が見えても、すぐに「手放す」とはなりませんでした。むしろ、ここから長い迷いが始まります。

2〜3年前、私は自分の人生を一度ふりかえりました。きっかけは資産運用です。それなりに順調に進み、FIREという選択肢が、遠い夢ではなくなってきたのです。

選べそうになると、人はかえって迷います。私の頭の中では、二つの声が何度も行ったり来たりしていました。

悔いなく最期を迎えられるか、にYesと言えなかった

一つは責任感の声です。地域や、関わってくれている人たちのために、最期まで続けるべきではないか。そういう声でした。

もう一つは、もっと静かな問いでした。「このまま続けて、悔いなく人生の最期を迎えられるか」。私はこの問いに、はっきりYesと言えませんでした。

言えなかったこと自体が、答えのようなものでした。続けるべきだという責任感。生涯この情熱を保てる気がしない、という予感。この二つが回り続ける。混沌とした時期でした。

このブログを始めた理由は、最初の記事に書いています。

はじめまして、ふく郎です

資産運用とライフプランがFIREを現実にした

迷っている間も、現実のほうは少しずつ動いていました。

私は長く資産運用を続けてきました。そこにライフプラン表と資産シミュレーションを重ねてみました。すると、ある像が見えてきたのです。「事業を手放しても、その後の人生は数字の上で成り立つ」。ぼんやりとですが、そう見えました。

具体的な数字には、ここでは触れません。ただ、ここで初めて「手放す」が机の上に乗りました。感情論ではなく、選べる選択肢としてです。

「手放してもいい」へ傾いた瞬間

そして、ある日、自分の中で答えが揃いました。

何か劇的なきっかけがあったわけではありません。資産シミュレーションが示してくれた数字、一人に頼りきった事業の限界、「悔いなく最期を迎えられるか」にYesと言えなかった自分。それまでバラバラに抱えていた三つが、ある朝、自然に一本の線につながりました。

「手放してもいいのかもしれない」。

そう自分に許可を出した瞬間、肩から重いものがフッと軽くなる感覚がありました。

家業への責任が消えたわけではありません。事業のことを考えると、いまでも背中はずっしり重い。それでも、「一生背負わなくていい選択肢もある」と自分の中で認めた——それだけで、こんなに楽になるものかと驚きました。

あの「肩が軽くなった朝」が、私の決断のいちばん大きな分岐点だったと思います。

譲る=逃げではなく、廃業を避ける最善手という論理

明るくなった視界の中で、理屈のほうも整いました。

私が抜ければ、一人に頼りきったこの事業は消えるかもしれません。それは、関わってくれた人たちにとって最悪の結末です。一方で、組織として引き継げる先につなげれば、私が消えても事業は残ります。

つまり「譲る」は逃げではありません。廃業を避けるための、いちばん良い手でした。続けることだけが責任ではない。未来の形で残すことも、また責任だ。私はそう考えるようになりました。

ふく郎

「譲るのは逃げではない」——この理屈に辿り着いたとき、視界が一気に広がりました。

同じように我慢している人へ

ここからは説教ではありません。私の決断を、一つの選択肢として置いておくだけです。

家業だから、跡取りだから。そう言って続けている人がいます。それが好きで選んだ仕事なら、私は何も言いません。続けられる情熱があるなら、それはとても幸福なことだと思います。

ただ、続けている理由が「選ばされた責任感」だけなのだとしたら。今の時代には、自分に正直なほうの道を選んでいい余地が、たぶんあります。

正直に言えば、決心した今も、迷いはゼロではありません。ただ、それは家業への責任感が残っているからではありません。資産が将来なくなる可能性が、数字の上で完全には0%にはならない。それだけの不安です。性質の違う迷いだと、自分の中では区別がついています。

ふく郎

ふく郎のまとめ

  • 私は「跡取り」を当たり前として育ち、自分で選んだ実感が薄いまま家業を継いだ。
  • 続けるほどに、先代頼みと一人頼みという、経営の作りの限界が見えた。私の弱さではなく、事業の作りの問題だった。
  • 人生をふりかえり、「悔いなく最期を迎えられるか」にYesと言えなかった。そして資産シミュレーションが、決断を後押しした。
  • 譲るのは逃げではない。廃業を避け、未来の形で事業を残すための、自分なりのいちばん良い手だと考えている。
ふく郎
ふく郎

代々続く家業を継いだ40代半ばの現役経営者。近年中に事業を第三者へ譲り、FIREを目指す。 サラリーマンとは違う「経営者視点」のお金の話を、個人資産の実数値を公開しながら発信中。

ふく郎について詳しく →

次に読む